当宮に『黄船社秘書』という和綴の小冊子がある。表紙に「不許他見」と記されている。社人 舌宗富により宝暦4年以降に著されたものと考えられ、内容に興味深いものが多く含まれている。中でもその中に納められている「貴布祢雙紙」は社人 舌氏の縁起を知る上で貴重なものである
「貴布祢雙紙」によれば、貴船の大神が「天下万民救済のために」天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨され、その時共をしたのが仏国童子(牛鬼とも云う)である。ところが、この仏国童子が饒舌で神戒をも顧みず神界の秘め事の一部始終を悉く他言したので、神怒に触れてその舌を八つ裂きにされ、逐われて芳野山に入った。そこで一時は五鬼の首魁となったが、程なく走り帰って、密かに鏡岩の蔭に隠れていたところ、漸くその罪を赦された。そこで鏡岩を窟岩とも書く。貴船明神も不憫に思い三年目に召し還す。この童子の子ができ僧国童子と名付けた。
ある時仏国童子が貴船明神の御弓、鉄にて打った面二寸三分宛の御弓を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神は、童子の手を鉄のクサリ七筋を以って括ったが、少しもひるまず引きちぎってしまう。大明神は今度は、二間四面の大石を膂に掛け置いたが、童子はこれも苦ともしなかったので大明神は心を痛めた 。
この童子、食べ物は一日三升三合食べたが、百三十歳の時カミナリに打たれて死んでしまった。二代目は少年の頃から、丹生大明神(貴船大神と御同体)に奉仕していたが、後に芳野の五鬼を従えて帰り、父に代わって神勤怠りなかったが百二歳でなくなった。
僧国童子の子を法国童子と云い、その子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていた。五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁昌して大明神に仕えた。そして祖先を忘れぬ為に名を舌と名乗った。(以下略)
舌(した)というものは、善用すれば理を弁じ、物を格し、道を講じ、和を謀るが、もしこれを悪用すれば、初代の如く秘を発き、密を洩らし、神を犯し、聖を汚すが故に、永く子孫を誡絞めるために、舌(ぜつ)と名のるようになったと云うのである
「黄船社秘書」には、明神が降臨したのは「丑年の丑月の丑日」とされ、巻末に百四代までの舌家の系図が載っている。
ともかく舌家は貴船神社の社家の筆頭として権威を持っていたことがわかる。この他に願・鳥居・藤田・山本・小林・畑等があり江戸初期の村内四十戸中、その三分の一の多数を占めていた。この社家は、左座と右座に分かれ舌家は左座の筆頭を占めた
江戸初期以来三百年間にわたった賀茂社との訴訟にも舌家は先頭に立ち、中でも舌左司馬の登場はこの長い訴訟史の中でも特記されるものである。しかし、明治になって社家が廃止されると社家達の多くが貴船を離れ舌家も現在2軒を残すのみである。